子供のころ、学校の手すりを滑り台にしていました。
同じように、自然物がモノに変わることも沢山ありました。
ただの木の棒が、皮がはげて綺麗になっていると「伝説の剣」になったり、 木の台に置かれたただの石を親戚のおいちゃんが 「これは山と渓谷を表現しとるんよ」と愛でていたり。 (山水石、というらしいですね、当時は「ジオラマのほうがかっこいいやん!」と思っていました。)
腰までの高さ、ホウキの柄くらいの太さ、ちょっとザラザラした部分がすくなくて、登山道の入り口に束ねられて、と条件がそろうと「ただの竹の枝」は山歩きの杖になります。
長さ・サイズ・質感と「どこに置かれているか」で自然物は「モノ」に変わる。
でも、夏の暑い日にもらった厚手のパンフレットは意図されていない「ウチワ」のようにつかわれて「モノ」の役目を果たすし、全て揃わないと「モノ」にならないか、というとそうでは無いところも面白いのです。
お箸ときれいな木の枝の境、はどこだろう…っち探るように、子供の時「ただのモノ」を「道具」に変えていたころの感性がよみがえるような作品をつくる大学の同級生が京都で展示をしました。
道具と接するとき、これは誰が原型を作ったと言わなくてもいいし、そういうことが話題にならないものこそ、役目を果たしているんだろうなぁ。
(南部鉄器のフォルムとか)
わかりやすいアイコンだけが作家の顔じゃないですよね。と、「大村大悟展 stain of glass」見にいっておもいました。
タイトルは、ガラスのシミ、という意味だそうですよ。
http://www.galleryparc.com/exhibition/exhibition_2014/201406-3-ohmura.html
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